劇評と言うものが権威を失墜して久しい。権威が失墜した歴史と理由はいろいろあるが、その中の大きな要因は観客の眼が肥えたことにあるだろう。これだけ多くの演劇が上演されている中で、高いお金を払って時間をかけて劇場へ出かけるのだから、芝居好きの嗅覚は自ずと鍛えられる。そんな中で、多くの芝居の劇評が書かれている。新聞には多くの大劇場の劇評が毎月掲載されているし、演劇雑誌もずいぶん増えた。
劇評というものの必要性を考える時、自分が劇評を書く身でありながら、多くのことを考えさせられる。自分の一言によって、その役者が傷つくこともあろうし、観客が不快な想いをすることもあるだろう。作者や演出者の意図を全く見当違いの方向で理解している場合もあるかも知れない。そういう責任を感じると、一本の芝居の劇評をあだやおろそかに書くことはできないと思う。プロの役者が高い入場料を取って演じているものに対しては、それなりの気持ちを持って対峙するのは、評論をするものとして当たり前の姿勢だろう。
その一方で、観客の眼がこれだけ肥えて来た今、昔と同じ感覚の劇評が必要なのか、という問題も考えなくてはならないだろう。残念ながら、今の日本の劇評には、アメリカのように芝居をクローズさせるほどの力はない。観客に対する一つの情報提供や、鑑賞の指針、としての劇評ではあっても、演技者との闘いになるような劇評は今の日本にはそぐわないのかも知れない。また、そういうものを求められてもいないのだろう。劇評を書くには、相当の勉強が必要である。勉強が不足していることは私が痛感していることであり、私のHPに対するご意見のメールはいつも襟を正して拝読している。劇評が正しい意味を持つ「劇評」であるために、読者の皆さんの厳しいご意見を切にお願いする次第である。