別に予言者になったわけではない。舞台の話である。一般的に、「劇評」と言うと、舞台を観ていない人のために作品の粗筋を述べ、そこに出ている主な役者の演技について触れ、最後にまとめる、というパターンが新聞などでは多い。そういうスタイルが劇評だと思っている方も多いだろう。しかし、劇評には登場しなくても、キチンと「見えている人」というのがいるものだ。決して大きな役ではなく、群衆の一人だとしても、その人の賢明の努力が見える。そういうものを発見することこそ、劇評家の仕事ではあるまいか。そういう役者を発見すると嬉しい。
先日、梅田コマ劇場で大地真央の「マイ・フェア・レディ」を観た時のこと。舞踏会のシーンでの皇太子を演じている俳優が気になった。ピシッと伸びた背筋が凛として、高貴な人柄をそこで表現しようとしていた。皇太子という役柄全部について言えば100点はあげられない。しかし、そういう役の解釈をし、努力をしているのが嬉しかった。彼の名を土屋貴俊、と言う。彼は「見えている人」だった。たった数分間の自分の出番をいかに観客に印象づけるか。それもあざとくてはいけない。どんな役であろうと、役の性根を考えることが大切だ。彼が皇太子の役をどう考えていたか、話したわけではないが、僕には彼の皇太子が「見えた」。
演劇界に綺羅星のごとくスターはいる。しかし、その影で、こうした努力を重ねて時折キラリとした光を放つ人々がいる。それを見つけるのは、宝石の原石を見つけるに等しいほど難しいが、それが見つかった時の嬉しさもまた格別なものだ。