ある劇作家の新しい芝居のあとがきを読んでいたら、劇評に対する怒りでそのほとんどが占められていた。もうすでに上演され、話題にもなった作品だが、どこかの劇評が作者にとってはお気に召さなかったらしい。これは作者の意見に分があるとも思ったが、それはそれで認める一方で、「芝居を知らない劇評がまかり通っているのが情けない」という内容の言葉もあった。
それを読んで感じたのは、どちらも一方通行で、お互いに議論し合う場がないことにも大きな問題がありはしないか、と言うことだ。私を含めた劇評家が批評を書いたら書きっぱなしで、役者なり劇作家がその批評に対して反論する場が設けられていない。平たく言えば「やられっぱなし」という場合もある。良い時はそれで問題はないが、反論したい場合もあろうし、勘違いの劇評もあろう。だからこそ、この劇作家は「あとがき」という本の大事なスペースのあらかたを、劇評に対する抗議にしたのだろう。
時折、演劇専門誌で「劇評家の座談会」や「合評会」なるものを見かけることがあるが、これも本質的には同じことで、批評される側が何も抵抗できないどころか、そのメンバーの中にいないことに問題がある。これでは欠席裁判も同じことで、お互いに論戦をしあう中で食い違いが改まり、意見を聴く機会もできようというものではないだろうか。
これは何も芝居の世界に限ったことではない。最近、口角泡を飛ばして論戦をする、という機会があまりないように思う。みんな、冷めているのだろうか。冷静なのだろうか。理知的なことは素晴らしいが、時には瞬間湯沸かし器のようにカッとなって、舌戦を戦わすことも必要ではあるまいか。もっとも、そうするには余りにも語彙が少ない人が多いのは事実だ。「…だし〜」「だってぇ〜」では議論にはならない。